
写真は、手打生そば「やまびこ」の天ざる高遠そばです。
真ん中の器に、辛み大根の汁が入ってます。
そばを「蕎麦」と書いたり「そば」と書いたりして、校正入れたらアウトなんですが、ご容赦ください。
お店の場合、お店のメニューに従うようにしてますが、これも徹底はできていません。
高遠そばは、辛み大根の汁がついてきます。そばを辛み大根の汁で食べても美味しいですし、蕎麦つゆと辛み大根の汁をお好みで割ったものに付けても美味しいです。
会津のそば屋さんだと高遠そばは決まってメニューにあります。どこで食べても高遠そばがあるので、これまた全国で同じようにあると思ってましたが、名称として高遠そばがあるのは会津と蕎麦どころの信州、伊那だけのようです。
特に疑問も抱かずにいましたが、そもそも「高遠」と言う言葉にはそば以外では聞き覚えがありません。そこで調べて見ましたら、歴史のある意外な名前の由来でした。
高遠そばは、高遠藩からの由来
高遠藩(たかとおはん)は、信濃国(南信地方)伊那郡(現在の長野県伊那市)高遠に所在した藩です。信州そば発祥の地となる伊那市になります。
関ヶ原の戦いの後、保科正光が2万5000石で入部したことにより高遠藩が成立しました。保科正光には嗣子が無かったので第2代将軍・徳川秀忠の隠し子である幸松を保科正之として養育することになりました。
その後、正之が秀忠の息子であることが周知の事実となったため、徳川家光の計らいにより、寛永13年(1636年)7月に出羽山形藩20万石に加増移封されました。
保科正之は、その7年後の寛永20年(1643年)7月、3万石加増の23万石で陸奥会津藩へ加増移封となりました。正之はそばが好きであったと伝えられ、移封する時もそば職人や穀屋などを連れて行きました。
会津で高遠の名が使われるのは、この高遠からきたそば職人や穀屋から伝わっています。
以来(370年以上も)、会津では辛み大根の汁で食べるそばを「高遠そば」と呼んでいるようです。
会津のそばが美味しいのは、殿様の言いつけでした
会津のそばが美味しいのは、美味しいそばを食べたかった会津の殿様(保科正之)が信州からそば職人や穀屋を引き連れて来た事によるものです。会津の殿様の言いつけで、美味しい蕎麦への研鑽と探求が始まったのであれば、ありがたい事です。
福島県南会津下郷町に残る宿場跡の大内宿(おおうちじゅく)も蕎麦は盛んで、これも会津の殿様の影響があったのでしょう、また、江戸で蕎麦が親しまれるようになったのも、参勤交代の江戸暮らしの際、会津の殿様が美味しい蕎麦を食べたかった為という話もあります。どこにでも蕎麦職人を連れてたのかもしれません。
保科正之は優れた藩主で、藩士の子弟教育に尽力、後の日新館を作ったりしています。藩士に対しては寛文元年、殉死を禁じたり、産業の育成と振興にも努めています。
同時代の水戸藩主 徳川光圀、岡山藩主 池田光政と並び、江戸初期の三名君と賞されています。
大内宿:国選定重要伝統的建造物郡保存地区(43道府県100市町村120地区の1つ)
信州そば発祥の地となる伊那に残る話
江戸時代の初め、高遠の殿様(保科正之公)はそば好きで、「辛つゆ(大根おろしの汁に焼味噌を入れたつゆ)」で食べる内の萱(地域名)の「行者そば」が大好物でした。
それを聞いた近郷近在の人々は行者そばを食べようと内の萱におしかけ、人々の求めに応じ切れなくなった内の萱では、一般の人は食べれないようにしました。それから行者そばは秘伝の味となったそうです。
今ではいつでも内の萱で食べれるようになっています。
こちら、本家の高遠そばは、「辛つゆ(大根おろしの汁に焼味噌を入れたつゆ)」で、会津の「辛み大根の汁」と異なっています。
下伊那の入野谷在来と名付けられた、地元在来種の蕎麦を使った高遠そばの記事がありました。
上述の「子育て移住NO.1のまち!?長野県伊那市の不動産屋さん」ブログで、長野県 伊那市と会津若松市は親善交流都市が締結されていると教えていただきました。
いつか、元祖 高遠蕎麦を食べにいかねばなりません。桜が素晴らしいという話です。
十割蕎麦(じゅうわりそば)、二八蕎麦(にはちそば)
会津の殿様はどちらがお好みだったのでしょうか。調べました。
が、「二八」という言葉の初見は享保13年(1728)らしく、保科正之の時代には無かったようです。
下記に詳しくありました。
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