会津四方山はどんな山 会津の話 知ってそうで知らない話もあるかも

会津若松 鶴ヶ城(若松城)諸々
会津若松 鶴ヶ城(若松城)

四方山(よもやま)は四方にある山、転じて世間、また、世間のさまざまなことで、四方山話(よもやま話)は色々な話題の話という意味で使われます。

会津の人が知っていると、嬉しいかもしれない話

「知ってるよ」と言う話もあるかもしれませんが、会津に住んでいて、「へぇー」とか「ほー」とか思った話をまとめて(追記して)いきます。

たこ焼き 紛れもない国民食の一つ 会津坂下町 (ばんげ まち)

会津田島祇園会館 たこ焼き販売
会津田島祇園会館 たこ焼き販売

たこ焼きのルーツは会津

たこ焼き-Wikipedia
たこ焼きは1935年(昭和10年)にできました、意外と新しい食べ物です。
元は「ラジオ焼き」と呼ばれるもので、スジ肉を具材としたものでしたが、明石焼きの影響を受けてタコ・鶏卵を入れて「たこ焼き」と名付けられました。
たこ焼きの、その創始者は、大阪市西成区「会津屋」の初代・遠藤留吉。
会津屋-会津屋の歴史
店名にある通り、遠藤留吉は会津の出身で、会津坂下町(ばんげ)生まれ。
こづゆの味付けを模したダシで、小麦粉を溶いて仕上げていました。
たこ焼きは、大阪生まれの大阪育ち。
それが全国に広まって、何千何万ものたこ焼き屋となって、そのルーツは「会津屋」になるのです。
そのルーツの根底には会津の人がいて、会津の食文化があったって、びっくり。

日本全国で知らない人のない国民食の一つと呼べる「たこ焼き」と、会津の深い関係。
会津田島町(たじま)にある祇園会館で教えてもらいました。
田島 祇園会館 たこ焼きの話-会津人が知ると嬉しい話。

ウチにも「冷凍たこ焼き」が常備品で、小腹が空いたら「チン」して食べてます。
馴染みの良さは「こづゆ」由来です。なるほど。

玄能(げんのう)その昔、ヒーローいました。福島県喜多方市

最近ではあまり使われない言葉かもしれません。
玄能-コトバンク
頭の両端にとがった部分のない大きな金槌(かなづち)の別称で、全国で使われる言葉です。
この言葉の元は、源翁和尚(源翁心昭 和尚)。

妖怪話に必ず出てくる「九尾の狐 玉藻前(たまものまえ)」
この妖狐は、鳥羽上皇の寵姫となるも、陰陽師・安倍泰成(あべ の やすちか)に見破られ、三浦介義明、千葉介常胤、上総介広常を将軍とする軍勢に討ち取られます。
九尾の狐は討ち取られたがも殺生石となり、その後も人々を苦しめたという話ですが、1385年(室町幕府時代)、会津の示現寺を開いた玄翁和尚が殺生石を破壊したのです。
この話から、大きな金槌の事を玄能(げんのう)と呼ばれるようになりました。

話が壮大です。何せ沢山の人を救った和尚です。
今でいうヒーローです。
後世に名を残していることを考えれば、SNSでトレンドナンバー1になってそれを何十年も続けていたくらいのインパクトではないでしょうか。

殺生石稲荷神社 会津美里町(伊佐須美神社 末社)
打ち砕かれた殺生石は、全国の「高田」と言う地名に飛び散りました。
旧 会津高田にある殺生石稲荷神社で、源翁和尚の事を知りました。

源翁和尚が開いた示現寺へ後ほど行きました。
示現寺 熱塩観音(あつしおかんのん) 会津三十三観音 第5番札所
ヒーローの追っかけ。
お泊まりは、
熱塩温泉 帰郷のお宿 ふじや 会津喜多方
です。

あわまんじゅう(粟饅頭)世界で唯一無二 会津柳津町

バスツアー 冬の奥会津を巡る旅 車内販売あわまんじゅう
バスツアー 冬の奥会津を巡る旅 車内販売あわまんじゅう

なに大袈裟なタイトルつけてんだ、と言われそうですが。
「あわまんじゅう」は会津柳津(やないづ)の名物です。

唯一無二とは、他に同類のものがなく、その一つ以外並ぶものがないことですが、何せ、他の地域にはない珍しいお饅頭なのです。
粟饅頭-Wikipedia

「あわまんじゅう」の事を書いていて、キーワード検索をかけたら、柳津しか出てきません。Wikipediaを読んだら、やっぱり柳津しか紹介されていません。

会津でこんなにポピュラーな饅頭が、会津でだけ食べられている驚き。
粟のプチプチした食感に、餅の粘りを持ち合せた独特の食感が相まり、更にこしあんの甘味が加わって素晴らしく美味しいです。

会津柳津 名物 あわまんじゅう

会津柳津は、日本三虚空蔵菩薩の一つに数えられる福満虚空蔵尊のある地でもあります。

銘菓と呼んでも差し支えないのですが、多くの人に親しまれている饅頭ですから、親しみやすい「名物」と呼びます。

福満虚空蔵尊 日本三虚空蔵菩薩 会津柳津町

日本において、ベスト3に数えられるものをよく「日本三○○」と呼んだりしますが、虚空蔵菩薩像において、日本三虚空蔵菩薩と称されるものの一つに福満虚空蔵尊(ふくまんこくぞうそん)があります。
でもこれって、地域の人たちがそう言っているだけで、本当はいっぱいあるんじゃない、と思ったりもします。
それで調べました。
日本三虚空蔵菩薩ってどこだか調べてみました、まとめ
結論としては、日本三虚空蔵菩薩として広く認知されているのは五尊ありました。
少しゆるく数えればもっと沢山あります。
それも当たり前で、定義や選定基準があるわけではないので、人が思うだけ日本三虚空蔵菩薩はあるという事でした。

そこで、各地の日本三虚空蔵菩薩では、他の二尊はどこを紹介しているのかを調べています。
福満虚空蔵尊はいかに。
ほぼほぼ、全ての地域の日本三虚空蔵菩薩で福満虚空蔵尊はその一つに挙げられていたのです。

数多くの日本三虚空蔵菩薩はありますが、その多くの人や地域で福満虚空蔵尊はその一尊と認められていました。

福満虚空蔵尊 圓蔵寺へお参り 会津柳津町

喜多方ラーメン 日本三大ラーメン 福島県喜多方市

ご当地ラーメン数あれど、不動の日本三大ラーメンなので、こちらは調べておりません。
・札幌ラーメン(北海道札幌市)
・博多ラーメン(福岡県福岡市)
・喜多方ラーメン(福島県喜多方市)
喜多方ラーメンWikipedia
よく言われることですが、対人口比の店舗数では日本一であったことが、日本三大ラーメンに数えられる礎となっています。
何せ、人口で言えば、札幌市は200万近く、福岡市は150万オーバーの大都市に対して、旧喜多方市(市町村合併前)では、人口37,000人。この4万に満たない人口に対してラーメン店が120店以上ありました。
よく喜多方は醤油味とも言われますが、塩、味噌を美味しく提供される店も多く、スープもさることながら、熟成多加水麺の平打ち縮れ麺が美味しくて好きです。

異論もある そんなにラーメン店ないよね

ラーメン店を集計しているサイトもあって、その多くは喜多方にそんなにラーメン店がないようになっています。
それも仕方なく、「食堂」に分類されている店がカウントされていないようなのです。
実際、あべ食堂、坂内食堂、まこと食堂と、喜多方ラーメン有名店のいくつかをみても「食堂」を名乗ってます。会津で閉店された「いとう食堂」がトンカツ一択だったようなものです。
事情としては喜多方に限った話ではありませんので、条件は同じとも言えます。

高遠そば 会津でのみ使われていた言葉 会津全域

高遠(たかとお)と呼びます。
全国で高遠そばがあるのは、会津と長野県伊那市高遠町のみ。
伊那市高遠町で「高遠そば」の名称が使われる前は、会津でのみ、この名称は使われていました。
会津では1643年以降、「高遠そば」の名称があったと考えられます。
この年、保科正之(初代、会津松平家)が会津へ入部しました。
保科正之は、第2代将軍・徳川秀忠の四男として生を受けたものの、庶子だったため信濃高遠藩3万石の藩主・保科正光の養子となって育ち、後に家臣団や蕎麦職人を連れて会津へ石高を上昇させながら移封されたのです。
高遠から移り住んだ人達が食べるそばの食べ方を「高遠そば」と呼んで、会津に定着しました。
その昔は、辛み大根のおろし汁と焼き味噌で食べるものでしたが、いつしか醤油のだし汁に辛み大根で食べられるようになりました。
会津の大内宿(おおうちじゅく)では箸代わりに長ネギで食べるものを出していますが、あれは観光用のパフォーマンスメニューで、高遠から移り住んだ人達が長ネギで食べていたわけではありません。

高遠そば(たかとおそば) 信州 伊那からの蕎麦伝来 会津

大塩 天然 炭酸水 国内唯一 金山町 (かねやま まち)

天然炭酸水といえば「ペリエ」が有名ですが、ペリエは硬水です。
国内の天然炭酸水が湧水している有名ところは、九重連山東部黒岳山麓の白水鉱泉(しらみずこうせん)と福島県 金山町の大塩天然炭酸水の2箇所。
白水鉱泉が硬水であるのに対して、金山は軟水の天然炭酸水が湧水している場所は全国唯一となります。
軟水の微炭酸でとても飲みやすい。炭酸場へ行けば誰でも無料で飲むことができます。
近くには天然炭酸を含む大塩温泉もあります。
wikipedia 白水鉱泉
wikipedia 大塩温泉 (福島県)
大塩 天然 炭酸水 軟水で全国唯一 金山町 福島県

会津一の有名人 小原庄助さん (おはら しょうすけ)

会津の夏祭りや盆踊りでは「会津磐梯山」が唄われます。
(最近は唄い手や、笛吹き手がいなくなってテープを流すところが多いです)
「小原庄助さん」は、この会津磐梯山の囃子詞(はやしことば)に出てくる名前。
こんな風に囃(はや)されます。

小原正助さん
なんで身上(しんしょう)つぶした
朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上つぶした
はあ、もっもだ、もっともだ

盆踊りが続く限り、この「会津磐梯山」が無限リピートされますので、小原正助さんの名前も、この囃子詞も、耳にどころではなく体に染み込んでいるという人は会津には多い筈。

小唄勝太郎が昭和九年(1934年)にビクターでレコード化。
この際に、歌い出しの「会津磐梯山」が曲名となり、この時に囃子詞もつけられました。

ローカル有名人ではありますが、会津限定で言えば、長年にわたってダントツ、並ぶ者なき、です。

この囃子詞の中での「身上」は、財産、資産、身分を指してます。
もう「何もかも無くした」という話で、有名人なのに、晩年は辛い人生。ちなみに、モデルの候補はあるようですが、一般的には架空の人物とされています。

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